七宝焼ブランド〈kimito〉販売お手伝い:2日間限定!公私ともに仲良くさせてもらっている七宝焼作家の植木未斗ちゃんが展開するアクセサリーブランド〈kimito〉の販売お手伝いを、2日間限定でさせていただくことになりました✨場所は松屋銀座8階イベントスクエア、人気の和小物が集まる「和のあそび展」にて。隣接会場で特別展「白洲正子ときもの」展が開催されていることもあって、松屋銀座には連日きもの好きさんがたくさんいらしているみたいです✨ 私は明日10日(火)12〜20時と、15日(日)10〜18時におります。是非遊びにいらして下さいね!さてさて、明日はこんな新春コーディネートでお迎えいたします🌸もちろん主役は〈kimito〉帯留を真ん中に据えて✨2017.01.09 12:00
翻る、夏の乙女の袂クリスマス気分に華やぐ青山は骨董通りの古物屋さんで、大正末期〜昭和初期のかなり状態の良い夏着物をお手頃価格で入手しました。完全に季節外れの話題で恐縮です。朝顔、撫子、桔梗、あざみに萩… 丸紋状にデザインされた夏秋の草花が、綿紅梅の生地に藍で染め抜かれた様子は、纏うまでもなく凛として涼しげ。衿を付けても、そのまま浴衣としても、着られます。2016.12.22 05:59
アルター・エゴと多面体な私(ブログを書く意味)アルター・エゴ(Alter Ego)とは、もう一人の自分、分身、無二の親友。哲学においては他我(他者の持つ我:他人の意識)の意味で使われる。私は全く詳しくないけれど、wikipediaによると「他我をいかに認識ないし経験できるのか」との問題を「他我問題(Problem of Other Mind)」と呼ぶそうで、デカルト、カント、ハイデッガー、サルトル、メルロ=ポンティ…と錚々たる近代哲学者が論じているらしい。「なお、東洋哲学では、古くから西洋哲学よりもある意味深く考察されており、そもそも他者だけでなく自分であっても、〈自我がある〉という考え自体が必ずしも自明ではないとされている(→無我説)」のあたりも気になるけれど、発散的に興味を追うのはまたの機会にして。思想家・内田樹氏はかつて自身のウェブコラムで「哲学の効用」という文章を書いています。その中で、「心の病というのは、おおざっぱに言えば〈自分はなぜここにいるのか〉〈自分は誰なのか〉といった問いにうまく答えることのできない精神のありようのことである。」と言っていますが、私の実感としてもまさにその通りで、心身に不調をきたす時は振り返ると大概、上記の「幼児的な問い」を「真っ正直に抱え込んで」しまう時のようです。また、「哲学は何か〈答え〉を提供するものではなく、〈答えがうまく出ない問い〉を取り扱うための技法である」ことについては、今回ようやく気づいたことで、回復のプロセスにおいて試した多くの技法(本を読む、友人と対話する、寺社教会を訪ねる、やや神秘主義に寄る手法も含めて)は全て、自己の本質を探り、根本に向き合う哲学的な姿勢に集約されるものでした。冒頭に触れたアルター・エゴについて、同じく内田氏は著書『街場の文体論』で以下のように書いています。人間というのはいつだって「誰か自分ではない人間」が横にいて、その人との共同作業じゃないと、一言だって口にできないもんなんです。---「いないけれど、いる他者」のことを哲学用語では「他我」と言います。何か言葉を発しようとするときに、「私の他にもう一人」その場に立ち会っていないと、私たちは一言も発することができない。そういうもんなんです。(p25,26)僕たちが言葉を語るときに、いちばん生き生きとした言葉というのは、自分が何を言っているのかわからないのだけれど、自分のなかには、それを聴きとって、ちゃんと理解してくれる誰かがいる。そういう確信があるときですよね。自分のなかに、自分とは違う言葉を使って生きているものがいて、その人に向かって語りかけている時、言葉はいちばん生き生きとしてくる。いちばんクリエイティブなものになる。言葉を作り出すというのは、そのようなうちなる他者との協同作業なんです。(p28)回復のプロセスに於いて、本当に多くの友人がこの「協同作業」に与してくれました。私はきっと、友人たちと話をしながら、自分の中の他者と対話を重ねていたんです。私にとって一番のホームグランドであり家族みたいな存在の能楽×建築研究会のみんな。京大時代のやんちゃで逞しい愛すべき女友達。性質は違えど〈病〉の経験を持つ友人。泣きたい時にフラリと会いに行ける日本橋のお店。お仕事でもお世話になってた20歳上と50歳上のお姉さん。女性性というものにきっと誰よりも向き合ってきた彼女。ひとつ前の記事に登場した「妙ちゃん」。そして2週間の帰省の中で、セラピストの資格も持つ中高の同級生、華奢な身体でコルベットを乗り回す女医さん(浪人時代の他校の友達)、大好きな両親。母になったあの子と、これから母になろうとせんあの子とあの子。「心に蒔かれた種」を掬い出し、文章を綴ることを勧めてくれた人。そして、ずっと一番近くにいたからこそ、摩擦と対立の構造に絡めとられてしまっていた夫との関わり。私一人では、どんな言葉も、一言だって口にできなかった。きっと一歩だって、前に進めなかった。複層的なアルター・エゴで出来ている多面体の私は、そのひとりひとりと対話しながら、ひとつひとつの面を確認するように光で照らしていったのだと思います。今、一通りの確認作業が終わり、分断されていた自己がまぁるく球体に近づいた。そうなって漸く、こうして文章をまとめ書き、社会と繋がる試みに再び踏み出すことができました。私にとって〈答えがうまく出ない問い〉を何とか取り扱い、仮設でもいい、それを言語化し、そこに「物語を与える」ことは、真っ当に生きて行くために必要不可欠な手段なのだと分かりました。それがこのブログを書くことを決めた理由です。だから、第一の想定読者は、私。そして、私の複層的なアルター・エゴを照らしてくれる全ての友人たち。そして、私と同じような自我の有り様に悩んだり、苦しんだりしたことのある全ての人に向けて。いつか届くことを願って、綴っていきたいと思っています。Embrace your double, body and soul, together with others;)2016.11.11 10:48
誰やらがかたちに似たり今朝の春大学院時代に所属していた建築意匠の研究室でたびたび顔を合わせていた「妙ちゃん」という友人がいます。当時の彼女は文学部からの転籍を予定した聴講生。私はというと研究室外の活動に精を出していて研究室にいる時間も短かったし、また彼女はその後フランスに留学をしたりして、当時もその後も深い交流には至りませんでした。でも、彼女の醸し出す雰囲気や、選ぶ言葉、ピュアな存在感にはずっと惹かれるものがあったので、今年6月、12年ぶりに再会を果たせた時にはとても嬉しかった。色々な話をしました。時間が足らずに話すに至らなかったことも含めて、12年分の、いいことも、わるいことも、すべて、なんとなく共有できたような気がしたのです。そんな流れの中で彼女が誘ってくれたワークショップ形式のイベント「ことばのけんちく」。タイトルだけでわくわくするでしょう?内容も分からずに向かいました。それは、彼女との対話を通じて、自分の古い記憶の中にある風景を取り出し、その風景に佇む自分と今の自分をつなぐ「ことば」を立ち上がらせていく作業。あっという間の2時間半が過ぎました。突然ですが、私はおそらく相当なファザコンです。この際ですので堂々と胸を張って自称します。と、急なカミングアウトの理由は、この日の妙ちゃんとの会話はほぼ、父との思い出話に終始したからです。私のいちばん古い記憶の風景、そこは3歳になる前まで住んでいた木造一軒家の階段室。2階には父の書斎があり、階段を上りきったところには柔らかな光が差し込む窓があります。その光を目指して、ハイハイで一歩ずつ階段を上る小さな私。父への憧憬と思慕、そして及び届かないものに持つ敬虔な気持ち(上記の記憶とはまた別の日かも知れませんが、その階段のてっぺんから下まで転がり落ちたことがあります)が、私の今日までの行動原理のすべて、と言っても過言ではないかも知れません。どちらかというと無意識下において、なのですが。そんな話に始まり、父とのことをあれやこれやと妙ちゃんに話しました。後日、彼女から送られてきた「ことば」が、本記事タイトルの芭蕉の一句。2016.11.09 11:00
広島幟町教会と、心に蒔かれた種。広島幟町(のぼりちょう)カトリック教会、通称・幟町教会へは、JR広島駅から徒歩10分ほどで辿り着きます。広島市内の中高一貫・カトリックの女子校で育った私にとって、そこは当時、年1回のクリスマスのミサを過ごす場所でした。大学で建築学科に進んでからは、1967年に文化勲章も受賞した建築家・村野藤吾の代表作の一つとして、広島市民としてより一層誇らしい思いでその存在を感じています。私はこれまで慣習的に幟町教会と呼んでいましたが、広く一般には「世界平和記念聖堂」の名が有名なようです。というより、1882年(明治15年)から原爆で焼失するまで幟町にあった古い日本様式の教会堂が広島の人たちから「幟町教会」と呼ばれていたのですね。そして、その地で被爆した当時のドイツ人主任司祭フーゴ・マキビ・エノミヤ=ラッサール(Hugo Makibi Enomiya-Lassalle, 1898 - 1990)が戦後、原爆犠牲者を弔うだけでなく、全世界の友情と世界平和を目指した祈りの場とするため、全世界に呼びかけ再建されたのが、この「世界平和記念聖堂」なのでした。ちなみに2006年、世界平和記念聖堂(1953年)は、丹下健三の広島平和記念資料館(1955年)とともに、戦後建築としては初めて重要文化財(建造物)に指定されています。2016.11.03 04:00
海からの贈物 / たこぶね『海からの贈物』は、女流飛行家アン・モロウ・リンドバーグ(1906-2001)の手によるエッセイで、1955年の出版以来の世界的なベストセラーでもあります。私にとっては、人生の節目と言わず何度となく読み返している大切な一冊です。私が京都大学の建築学科4回生の頃(関西では大学◯年生のことを◯回生と言うのです、懐かしい。)、他学部に一年先に進学した高校の同級生に薦められる形で手にしたと記憶しています。手元にあるのは吉田健一の手で訳された新潮文庫で(落合恵子訳のものは未読)、1967年出版、2002年・65刷のものの著者名は ‘リンドバーグ夫人’ となっています。現在購入できる新装丁のものが ‘アン・モロウ・リンドバーグ’ と個人名に改められているのは、本書の裏表紙の解説にある通り「自らも世界の女流飛行家の草分けの一人である著者が、その経歴を一切捨て、一人の女として、主婦として、自分自身を相手に続けられた人生に関する対話である」からなのでしょう。また今回、原書『Gift from the Sea』も手に入れました(装丁も日本的な色づかいとある種の抽象性を感じさせる図柄で素敵です)。本書でたびたびリルケやイェイツの詩が引用されているのと、凛としつつも優しく浜辺に寄せる波のようにリズミカルな吉田健一の訳文がとても好きだったので、却って原文はどのような言葉で書かれているのかを知りたくなったのでした。印象的だった英文はここにも引いてみたいと思います。2016.10.29 23:00