アルター・エゴと多面体な私(ブログを書く意味)
アルター・エゴ(Alter Ego)とは、もう一人の自分、分身、無二の親友。哲学においては他我(他者の持つ我:他人の意識)の意味で使われる。私は全く詳しくないけれど、wikipediaによると「他我をいかに認識ないし経験できるのか」との問題を「他我問題(Problem of Other Mind)」と呼ぶそうで、デカルト、カント、ハイデッガー、サルトル、メルロ=ポンティ…と錚々たる近代哲学者が論じているらしい。
「なお、東洋哲学では、古くから西洋哲学よりもある意味深く考察されており、そもそも他者だけでなく自分であっても、〈自我がある〉という考え自体が必ずしも自明ではないとされている(→無我説)」のあたりも気になるけれど、発散的に興味を追うのはまたの機会にして。
思想家・内田樹氏はかつて自身のウェブコラムで「哲学の効用」という文章を書いています。その中で、「心の病というのは、おおざっぱに言えば〈自分はなぜここにいるのか〉〈自分は誰なのか〉といった問いにうまく答えることのできない精神のありようのことである。」と言っていますが、私の実感としてもまさにその通りで、心身に不調をきたす時は振り返ると大概、上記の「幼児的な問い」を「真っ正直に抱え込んで」しまう時のようです。
また、「哲学は何か〈答え〉を提供するものではなく、〈答えがうまく出ない問い〉を取り扱うための技法である」ことについては、今回ようやく気づいたことで、回復のプロセスにおいて試した多くの技法(本を読む、友人と対話する、寺社教会を訪ねる、やや神秘主義に寄る手法も含めて)は全て、自己の本質を探り、根本に向き合う哲学的な姿勢に集約されるものでした。
冒頭に触れたアルター・エゴについて、同じく内田氏は著書『街場の文体論』で以下のように書いています。
人間というのはいつだって「誰か自分ではない人間」が横にいて、その人との共同作業じゃないと、一言だって口にできないもんなんです。---「いないけれど、いる他者」のことを哲学用語では「他我」と言います。何か言葉を発しようとするときに、「私の他にもう一人」その場に立ち会っていないと、私たちは一言も発することができない。そういうもんなんです。(p25,26)
僕たちが言葉を語るときに、いちばん生き生きとした言葉というのは、自分が何を言っているのかわからないのだけれど、自分のなかには、それを聴きとって、ちゃんと理解してくれる誰かがいる。そういう確信があるときですよね。自分のなかに、自分とは違う言葉を使って生きているものがいて、その人に向かって語りかけている時、言葉はいちばん生き生きとしてくる。いちばんクリエイティブなものになる。言葉を作り出すというのは、そのようなうちなる他者との協同作業なんです。(p28)
回復のプロセスに於いて、本当に多くの友人がこの「協同作業」に与してくれました。私はきっと、友人たちと話をしながら、自分の中の他者と対話を重ねていたんです。
私一人では、どんな言葉も、一言だって口にできなかった。きっと一歩だって、前に進めなかった。複層的なアルター・エゴで出来ている多面体の私は、そのひとりひとりと対話しながら、ひとつひとつの面を確認するように光で照らしていったのだと思います。
今、一通りの確認作業が終わり、分断されていた自己がまぁるく球体に近づいた。そうなって漸く、こうして文章をまとめ書き、社会と繋がる試みに再び踏み出すことができました。私にとって〈答えがうまく出ない問い〉を何とか取り扱い、仮設でもいい、それを言語化し、そこに「物語を与える」ことは、真っ当に生きて行くために必要不可欠な手段なのだと分かりました。それがこのブログを書くことを決めた理由です。
だから、第一の想定読者は、私。そして、私の複層的なアルター・エゴを照らしてくれる全ての友人たち。そして、私と同じような自我の有り様に悩んだり、苦しんだりしたことのある全ての人に向けて。いつか届くことを願って、綴っていきたいと思っています。
Embrace your double, body and soul, together with others;)
△画像は全て妙ちゃんからの贈り物。
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